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四谷大宗寺、妓楼伊豆橋跡の探索

新宿2丁目付近
メトロ新宿御苑駅を出て少し西方向への寄り、太宗寺門前が見える。
 
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「夏目漱石記念年」 ゆかりの熊本 100人委きょう発足

盛り上げよう「夏目漱石記念年」 ゆかりの熊本 100人委きょう発足

2014.5.10  (産経ニュース)
 
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漱石人形も置かれた「夏目漱石内坪井旧居」。記念年を前に多くの漱石ファンが訪れている=熊本市中央区
漱石人形も置かれた「夏目漱石内坪井旧居」。記念年を前に多くの漱石ファンが訪れている=熊本市中央区
 ■没後100年・生誕150年
 日本を代表する文豪、夏目漱石(1867~1916)の没後100年と熊本来県120年の節目が平成28年に、生誕150年が29年に訪れる。この記念すべき年を盛り上げようと「漱石記念年100人委員会」が10日、漱石ゆかりの熊本市で発足する。このほか旧漱石宅の改装など、漱石人気で地域おこしをねらった動きも進んでいる。
                   ◇
 漱石は、明治29(1986)年に熊本大の前身である旧制第五高等学校に赴任し、4年3カ月にわたり熊本で過ごす。その間、結婚と長女の誕生を経験し、後に熊本を舞台にした「草枕」や「二百十日」も発表した。
 熊本で漱石の顕彰活動に取り組む「くまもと漱石倶楽部」は、28年と29年を「夏目漱石記念年」と定め、イベントなどを開く100人委員会を設立することを決めた。
 100人委員会の呼びかけ人には、漱石倶楽部を中心に蒲島郁夫知事や、熊本市の幸山政史市長、阿蘇市の佐藤義興市長、崇城大の中山峰男学長ら14人が名を連ねた。これまでに57の県内企業や文化団体が協力を表明。10日に熊本大構内の放送大学熊本学習センターで設立総会を開く。
 委員会では今後、熊本市電「漱石号」運行や記念イベント、シンポジウム開催のほか、漱石ゆかりの神奈川県鎌倉市や松山市との共同イベントも計画している。
 漱石倶楽部会長の和田正隆氏(78)は「熊本は漱石の第二の故郷。活動を盛り上げ、漱石と熊本の関わりを多くの市民に再認識してほしい」と語った。
 このほか、熊本市内では漱石ファンを呼び込む仕掛けが着々と進んでいる。
 市は昨年、漱石が住んだ「夏目漱石内坪井旧居」(木造平屋建て、市指定史跡)を約400万円かけて改装した。漱石全集を閲覧できるサロンを設けたほか、机に向かう漱石の人形が置かれた書斎には、来場者が同じポーズをとれる机と座布団を置いた。
 こうした取り組みが奏功し、平成25年の年間来場者は1万393人と、前年(1万92人)をわずかながら上回った。
 漱石が来県した際、初めて降り立った上熊本駅(熊本市西区、旧池田駅)周辺では、地元店主らが漱石ムード盛り上げに一役買う。
 上熊本商栄会青年部は、駅前の漱石像に着させるスーツと和服を新調し、11日の「第29回草枕の駅コンサート」でお披露目する。担当者は「上熊本界隈(かいわい)が漱石とゆかりがあることは市民にあまり知られていない。イベントを通じて話題性を高め、周辺の観光・文化の振興に寄与したい」とする。
 市文化振興課の丹後田秀幸氏は「100人委員会などをきっかけに、行政や大学、企業の連携を進め、漱石記念年を盛り上げ、観光客誘致や地域活性化につなげたい」と語った。

漱石・子規の足跡、文学碑に 房総鋸山探勝碑 序幕式

漱石・子規の足跡、文学碑に 
24日 房総鋸山探勝碑 序幕式(朝日新聞)
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100年後も通じる漱石の言葉 「個人」の役割考える

100年後も通じる漱石の言葉 「個人」の役割考える

2014年4月19日(朝日新聞)
 
 
 
夏目漱石「こころ」(先生の遺書)の生原稿=岩波書店提供
 夏目漱石は、現実から離れて生きる「余裕派」として知られる。晩年には、身を自然にゆだねて生きる「則天去私」を語った。そのイメージと裏腹に、講演や日記には現代にも通じる批評が鋭く刻まれている。
 「現代日本の開化」は、明治末期の1911年に和歌山県で語った講演録だ。漱石は、機械化が進む文明発達の根源には人間の「横着心」がある、と語る。なお文明が肥大し、グローバル化した現代。欲望の本質を突く言葉に聞こえる。
 隅田川の川開きが明治天皇の危篤報道後に中止されたことも日記で触れた。昭和天皇逝去の際や、東日本大震災後に広がった自粛の同調圧力を連想させる。漱石は「直接、病に影響しないならイベントは開くべきだ」と明確な態度を示す。
 国家主義への考え方も示唆に富んでいる。「私の個人主義」は、日本が第1次世界大戦に参戦した1914年の講演だ。漱石は「国家」と「個人」の関係に触れ、国家に「徳義心はそんなにありやしません」と語った。そして「国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならない」と言い、社会的な義務を果たす「個人」の尊重を訴えている。
 個人の尊重は、教師時代の記述にも垣間見える。「多勢で一人を馬鹿にするな」。他人に敬意を表す紳士的な生き方は、現代に通じている。(高津祐典)

大正5年 夏目漱石逝く 「偉大な明治」の終わり

(あのとき・それから)大正5年 夏目漱石逝く 「偉大な明治」の終わり

2014年5月17日(朝日新聞)
 
臨終近い漱石。門下生らが見守る=朝日新聞写真班撮影、「漱石写真帖」から
 
 (1916)
 夏目漱石が東京・早稲田南町の自宅書斎で倒れたのは、1916(大正5)年11月22日午前のことだった。昼前にお手伝いさんが食前の薬を持っていくと、漱石は机の上に突っ伏していた。鏡子夫人が駆け付け、すぐに床をとった。机の上には、百八十九と回数だけ書いてある原稿用紙があった。執筆中の「明暗」の原稿だった。夫人は「漱石の思い出」でそう語っている。以降漱石は、二度と起き上がれなかった。
 前日、後に仏文学者として知られようになる辰野隆の結婚式に出席、好物の南京豆を食べた。持病の胃潰瘍(いかいよう)に、消化の悪い南京豆はご法度だったが、監視役の夫人の席が離れていたため、つい手を伸ばした。これが悪かった。
 12月に入って病状は悪化、9日、いよいよ危なくなった。女学校に行った長女は急きょ、呼び戻された。その帰り、人力車がひっくり返り、長女は幌(ほろ)からはい出て、走って帰ってきた。死にそうな人の写真を撮ると治る、と子どもたちが言うので、夫人が朝日新聞の写真班に、隣の部屋から、フラッシュをたかずにそっと撮ってもらった。
 その日の夜6時50分、漱石は絶命した。満49歳だった。
     *
 12日、青山斎場で葬儀が行われた。その朝、最も若い門下生の芥川龍之介は、自宅書斎で最後のお別れをした。「南無阿弥陀仏」と書かれた細く刻んだ紙に埋もれて、棺の中の漱石は静かに目をつぶっていた。ほとんど無感動に礼をして引き下がった芥川は、外に出るやもう一度、漱石の顔を見たくなった。よく見てくるのを忘れたような心持ちがしたからだった。
 芥川は、葬儀で受付を受け持った。参会者が続くうち、霜降りの外套(がいとう)に中折れ帽をかぶった紳士が名刺を差し出した。森鴎外だった。
 それから2年後、新進作家として一本立ちした芥川は、俳聖・松尾芭蕉の臨終を描く「枯野(かれの)抄」を発表する。芭蕉がまさにいま、息を引き取ろうとする時、その場に集まった門下生らの心の内を推し量る小説だ。弟子のひとり丈艸(じょうそう)は、悲しみのなかに、安らかな心持ちも感じていた。長年の師の人格的圧力から解放された喜びだった。
 「枯野抄は漱石の死を意識したのは間違いないですね。人間心理、観察の深さは漱石から学んだものです」と、芥川研究の権威、関口安義・都留文科大学名誉教授は話す。
     *
 漱石の死の翌日、明治の元勲・大山巌が死去した。西郷隆盛の従弟(いとこ)、日露戦争時の満州軍総司令官で、清廉な武人として、国民から広く慕われた軍人・政治家だった。
 新聞は連日、大山の国葬、漱石の葬儀など明治の武と文を代表する2人の事跡を報じた。批評家内田魯庵は、漱石の創作を、当時主流だった自然主義文学と距離をおき、「ユーモラスなかつ上品にして力強い」英文学の流れをくむものと評し、その死を悼んだ。文壇の大御所坪内逍遥は、明治以降の芝居と小説の分離に、漱石の功績が大きかったと追悼した。
 明治天皇の死去から5年、国民はこの2人の退場から、「偉大な明治」が過去になったことを、改めてかみしめたのだった。
 この年、政治学者吉野作造が、民本主義を提唱する論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」を発表している。民衆を視野に入れた新しい政治思想だ。大正デモクラシーが始まった。
 (牧村健一郎)
 
 ■上滑りの近代化に違和感 日本女子大学教授・成田龍一さん(62)
 近代日本の社会が大きく変わったのは、日露戦争後から大正の初めまでと、大正末から昭和初期でした。漱石が活動したのはまさに前者の時期でした。
 日露戦争の勝利で、近代日本の最大の課題だった富国強兵が一応、達成され、時代が一回りします。明治国家を作り上げた人々が退き、漱石ら新しい世代が登場します。そこで次の課題はどうするか、が問われます。
 これまでの延長線上で進み、列強として際限なく膨張していくのか、あるいは近代化の内実を充実させていくのか。東京・日比谷での暴動に象徴される、都市の下層階級(雑業層)が勃興し、自己主張を始める時期でもありました。
 日本は韓国併合や大逆事件でみられるとおり、延長線上の道をとりましたが、漱石はそれに常に違和感を持ちます。一等国になったと喜ぶ世間の風潮に、「三四郎」では登場人物に、日本は「亡(ほろ)びるね」と言わせ、講演「現代日本の開化」で日本の近代化は外発的で上滑りだ、と警告しています。
 漱石が抱えた近代化への違和感は、経済大国、バブルを経て原発事故に直面した現代日本にとっても、きわめてリアルな問題といえます。
 
 ■書斎の復元を計画
 漱石の死後、漱石山房(書斎と客間)は保存が検討された。関東大震災の後、田園調布への移転話が持ち上がったが、実現しなかった。遺族はその後、引っ越し、長年、母屋と山房は空き家同然だった。
 1943年、空襲を恐れた漱石の高弟で当時東北帝大教授の小宮豊隆が音頭をとり、膨大な漱石の蔵書を仙台の同大図書館に移した。母屋と山房は45年5月の東京空襲で焼失した。
 現在、漱石公園になっている跡地に、管轄する新宿区が漱石山房の復元を計画、生誕150年にあたる2017年に漱石山房記念館(仮称)を建設する予定だ。書斎や客間、ベランダ式回廊などが再現される。
 ◇次回は「第1次世界大戦」の予定です。

漱石・子規 房総探勝碑除幕式レポート

漱石・子規 房総探勝碑除幕式
 
 1889年、漱石は23歳のときに友人らと房総を旅し、漢文で旅行記「木屑録」を記した。
鋸南町の保田で海水浴を楽しみ、鋸山に登った。その後、東金、銚子を経て帰京した。
木屑録に刺激され、子規は1891年(明治24年)に市川、船橋、佐倉、成田、大多喜、小湊、鋸山を歩き、紀行文「かくれみの」を書いている。 
 ふたりの交友、房総探勝をきっかけに関さんらの顕彰碑設置の会が日本寺住職とともに趣旨賛同者により文学碑を建立しました。 
2014/5/15(木) 午後 3:16
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漱石の夏やすみ 房総紀行「木屑録」 高島俊男 著  朔北社

「木屑録(ぼくせつろく)」は明治22年、学生だった漱石が23歳の夏やすみに友人4人と房総旅行に出掛け、その見聞をしるした漢文紀行です。
いろいろな意味で用いられる「漢文」という言葉を、著者がわかりやすく、そしておもしろく解説。「漢文」とは一体何か?「漢文の常識」がくつがえされます。
また、日本人と文章の不思議な関わりについて、興味深い事実の数々も明かされています。 
2014/5/15(木) 午後 3:22
 
夏目漱石の房総旅行 木屑録を読む 斎藤 均 著 崙書房
 
 文豪夏目漱石が明治二十二年(一八八九)八日、学友と共に房総に訪れ、二十四日間の長旅からかえると十日程で、紀行漢詩文集『木屑録』を書き上げた。千葉存住の著者が、後の文豪の若き日の作品を多くの人に親しんでもらおうと意図した。
 漱石は、第一高等中学校では英文学を専攻することをひそかに決意してはいたが、少年期の自己の資質に対する独善的な評価を修正する機会をえたのはこの房総旅行においてであった。漱石が他の学友と比較して、旅行中寡言であった理由は、そもそも旅のとらえ方に大きな差異があったからにほかならない。学友が旅そのものに心を躍らせている一方で、若き漱石は世界観醸成のために自然と真正面に向かい合ったのである。
 英文学を専攻しつつ、東洋の文学観や世界観を自己のよりどころ、あるいはまた己が文学の支柱として求めるという精神生活の二重性は、やがて桎梏に転化し、留学期まで漢詩は散発的に作られたものの留学を終えて帰国して後の小説の創作に追われていた時期に一時漢詩からはなれたものの、明治四十三年の胃潰瘍入院中に再び詩心がわいている。また、晩年の神経衰弱の再発に際し、安定剤となりえたのが南画や書であり、漱石はそれらにたいして没我的に傾倒していった。自己救済の方法でもあった。
2014/5/15(木) 午後 4:20
 
漱石と子規 手紙 ロンドンの焼芋 関 宏夫 著 暮らしの手帖社編集
 
 明治時代の小説家、夏目漱石と俳人の正岡子規。2人が房総半島とゆかりがあることについて、いすみ市の元高校教諭、関宏夫さんは20年以上にわたり研究。集大成となる著書を自費出版した。
「漱石と子規手紙ロンドンの焼芋」(335ページ、2千円)と題した冊子は、関さんにとって3作目となる漱石、子規シリーズだ。
2人は20代前半の学生のころ、房総半島をそれぞれ旅したことがある。旅の情景をまとめた紀行作品として、子規は俳句でまとめた「かくれみの」、漱石は漢詩文でつづった「木屑(ぼくせつ)録」を残した。

今回の著書では、これらの内容をあらためて紹介。同時に、2人が紀行作品に対する感想を手紙でやりとりして友情を深めていったことも解説する。
 
 この関さんらの想いと相まって、漱石・子規二人の房総探勝と「木屑録」、「かくれみの」作品を記念し、文学碑の設置活動が展開されてきた。 
2014/5/15(木) 午後 6:22

文学碑序幕イベントをダイジェストしました。
 
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序幕の模様

 
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ロンドンの焼芋を執筆した
関 宏夫さん

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展示された子規・漱石の人形
 
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鰻の安田四代目女将 
安田徳子さん
 
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武蔵大 欒 殿武先生の講演
欒先生の講演で次のレジメ資料が提供された。
漱石「木屑録」の旅
交通手段
・汽船通快丸(明治15年、安善社運行、
霊岸島から、浦賀、加知山、那古、館山、小湊、浮津、勝浦まで)
・汽船房州丸(明治15年、安房共立会社運行、房州旧区戸長と、豪農設立、
越前堀から、浦賀、保田、加知山、多田良、船形、名古まで、荷物が中心)
・汽船通運丸(推測)、内国通運会社は、明治10年5月1日から、利根川筋往復の蒸気船旅客及び運送を始め、明治17年3月に航路を外洋に拡張し、東京湾を横断し、相模国浦賀を経て、房州沿岸諸港に至る航路を開いた。
明治22年11月に東京湾汽船会社の創立に賛同し、房相豆の各航路を同会社に譲渡した。(「内国通運株式会社発達史」より抜粋)「内国通運会社にてハ今度一萬園餘かけて堅牢なる小蒸気を製造し、2月よりハ房州館山通ひの通運丸三艘を以て航海するといふ。」(「読売新聞」明治20年1月9日)
 
(漱石「木屑録」の旅ーー風景の成立)
 本文を読む(レポートより) 
Natsume Soseki and his friends did travel to round the Boso Peninsula from August 7th 1889 to the 30^<th>. Returned from the trip to Tokyo, Soseki wrote the travel book, Bokusetsuroku in classical Chinese, which referred to his experiences on the trip, and asked his friend, Masaoka Shiki, to review this book. In this paper, I would like to analyze Bokusetsu-roku discussing such focal points as: 1) the issues concerning Soseki's knowledge of classical Chinese and his style of travel writing: 2) the ways of describing Boso sceneries with regards to Soseki's perspective as a prose writer: 3) how Boso sceneries are signified in the narrative. It is clear that Soseki was impressed by the natural beauty of the Boso Peninsula. For Soseki, the travel to the Boso was not just a travel for sight-seeing, but it was the literary practice of searching for the way to go beyond the concepts of realistic sceneries represented by the Chinese poetry and the Painting in the Nanga style.
 
 
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              当日配布された記念誌
 
 
「木屑録」読書の旅!

 漢文を読み、ダイレクトに理解するのは、はなはだ困難でした。各先生方の読下し文と、解説を参考に、二人がたどった房総の旅を想像してみた。
 

中でも、漱石の「木屑録」から、
    総じてみれば木屑録は三十三段まで保田周辺、鋸山、誕生寺の風景を中心に描かれたが天津小湊から利根川上りを経て東京までの記録は三十四段の漢詩五首だけで済まされてしまっている。
    よって、全体的に竜頭蛇尾の感がある事は否めない。それまでの文章からは、風景と言う自然の美を発見し、その体験を漢文、漢詩で記し、人に伝えようとする感動が読み取れる。
    また文章の間に差し込まれた漢詩は、風景を中心とし、読者に明るい印象を与える。
    さらに、対句などの規則も簡単で風景の描写や個人感情の表出に便利な古詩を二首も取り入れられ漱石が感動した房総特有の風景が生き生きと描かれている。
    しかし、文末の三十四段の漢詩には月並の風景しか描かれていない。もちろん漢詩そのもの自体には「秋林」「荒駅」「江村」「墨江」などの詩語もあるし、秋の季節の特徴も現れているから風景がちゃんと表現されている。
    しかも、それらの風景がどこにでもある風景で、「秋千里」や「涙万行」のような漢詩特有の常套の誇張的な表現も使われている。
 それらの風景は漱石特有の「愁い」をあらわす雰囲気づくり、もしくは舞台装置のようなものであり、東金から銚子、利根川上り、三ツ堀に至るまでの景色は、前半のような写生的なものとは明らかに異なる。
    つまり、中国の古の詩人たちのように、風景の集団的表象を外在化させることによる自己表現に戻ってしまった。その理由は2つ考えられる。
 1つ、これらの漢詩における時間の推移はちょうど夏から秋の時間の縁に当たる。秋の季節や風景は東洋ではとりわけ詩人の寂しい気持ちを誘いやすい。季節の変化は漱石の脳裏に染み付いた東洋的文学感情を呼び覚ましたのである。
 2つ、二十四日間にわたる長旅が終盤にさしかかり、郷愁の念に駆られ一行五人が帰路を急ぎ、風景を楽しむ余裕はなくなったかもしれない。よって時間的に後半の帰路は執筆に近いにも関わらず、風景がほとんど記されていない。風景が急速に色あせて、かつ風景を見る視線もぼやけて、見つめる対象も抽象的になっている。それに伴い、詩も個性を失い、パターン化してしまったのである。
 
(漢詩、読下し文)
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まとめてみると
・漱石にとって貴重な異境体験であった。日常を相対化し、日常性の差異化、逸脱を経験し、新しい視点で風景を発見することができた。
・従来の漢詩のかたを破り、写実的風景描写から脱却し、写生的な試みの第一歩を歩みだした。文章家の原体験を求め、心象風景だった南画を自然の中に見つけ、模写することにより、対象への細かい観察力を身に着けた。
・房総の風土が漱石に大きな感銘を与え、「木屑録」の成立につながったのみならず、旅の体験が漱石作品に様々な形で生かされた。房総紀行は漱石の自然観の形成および文学の形成に少なからぬ意味を持ったに違いない。

「木屑録」と漱石の小説については、
・「草枕」三
・「門」四の八
・「こころ」八十二
を参照されたい。
2014/5/24(土) 午後 9:20
 
 先の銚子~三ツ堀間の疑問については、利根川の通運にヒントはないか県立図書館にレファレンスをお願いしました。
 以下のような回答がございました。
 
千葉県立図書館です。
さきにご依頼のありましたメールレファレンスについて回答します。
 
受付番号:6000016271
 
質問の題:明治20年ごろの利根川の通運・交通について
 
<質問内容>『木屑録』文中に登場する房総の地名は、保田、小湊、東金、銚子、三ツ堀等である。
銚子、三ツ堀間は利根川の海運・交通()を利用したとのこと。
そこで、利根川の当時の通運・交通状況を把握できる資料等を紹介されたい。
  
追加情報あり  6000016308
 
 <回答>追加情報のご提供、ありがとうございました。
この中にあった、汽船や、航路に関する資料の所蔵も念頭に置き調査いたしましたが、とりあえず「利根川の海運、交通」関連の資料からお知らせいたします。
 
近代の利根川関係の河川交通資料として比較的まとまっているのは、【資料1】『図説・川の上の近代 通運丸と関東の川蒸気船交通史』です。この本は平成19年開催の江東区中川船番所資料館・物流博物館・吉岡まちかど博物館3館における合同展「川の上の近代 川蒸気船とその時代」の展示解説図録です。とくに関東地方の蒸気船の代表的存在といえる内国通運会社の通運丸を中心に取扱いながら蒸気船が各地の河岸に与えた影響や蒸気船による旅の様相をまとめています。(「はじめに」より)
ご依頼の年代、地区とぴったり一致するわけではないのですが、以下に、明治20年頃の銚子、三ツ堀関連の河川交通について、掲載の箇所をご案内します。
・p112?「明治期・関東地方における蒸気船交通史の概観-利根川流域を中心に-」という解説があり、p116「明治18年初頭、利根川流域航行蒸気船一覧」の表は航路、船名、定繋場、定航地方などが掲載されています。定繋場-定航地方の組み合わせが「銚子」「三ツ堀」になっている船については下川航路で「銚子汽船」所有の「第1銚子丸」等3種掲載されています。
・p11「同盟関係の成立と航路の安定」の項で、「明治10年代後半の航運会社との競争を通じ、利根川水系では内国通運・銚子汽船・木下の吉岡家などによる同盟が成立します。明治20年代に入ると、主に江戸川・上利根方面は内国通運、下利根方面は銚子汽船・吉岡家という棲み分けが成立し、内国通運の航路も安定していきます。」と記載されています。
・p8は(通運丸の)「初期の航路延長(明治10年(18775月就航?同19年(1886)まで)」の表によると下利根霞ヶ浦方面に内国通運会社決算報告18年による、出発地が三ツ堀で終着地が銚子という項目があり、備考欄には「高田丸2艘購入により航路拡張」と記載されています。
・p12「通運丸の航路の変遷(明治20年以降)の項目で、
<明治21年(1888)の航路>に東京?鉾田・銚子線:汽船3/
東京?鉾田、銚子間という航路の掲載があります。
・p68「蒸気船の旅」の項目に日記に描かれた城沖線の旅「東京旅日記」の項目があり、明治時代の老夫婦の10日にわたる旅日記で、ちょうど明治20年の124日に出発した旅です。木下から三ツ堀に向かう途中の船中の様子が書かれているとあります。
また、p69<三ツ堀・今上巻の陸路連絡>という項目では資料の説明に「三ツ堀・今上ルートは、明治233月の利根川開通以前には江戸と利根川を結ぶ重要なルートのひとつで、「東京旅日記」の老夫婦が三ツ堀で下船したのち大雨の中を今上鹿島で歩いたと考えられるルートが記されています。」と記述があります。
 
この他、いただいた追加情報の内容も含めて、関連記述の掲載資料をご紹介します。
【資料2】『千葉県の歴史 通史編近現代1』のp639?「第1節房総の水運」「1船が結ぶ東京都房総」p643?「2 内陸の水運」の項目があり廻漕会社の設立や経緯、交通事情などが記述されています。三ツ堀銚子間の明治20年の状況についてはみつかりませんが、関連したものとしては、p644に、1884年に航路を東葛飾郡三ツ堀(野田市)に延長して下利根川は同盟汽船が、野田以南の江戸川は通運丸が航行したとの記述があります。また、p645に銚子-東京間の運賃は1888(明治21)年1011日の『東海新報』によれば63銭で、上等は3割増しであったなどということや所要時間などが簡単に記述されています。
 
【資料3】『水郷汽船史 ふるさと文庫』のp15「通運丸航路開設一覧」という表の航路延長の項目に「明18.317」に「三ツ堀?銚子間増便」と記載されています。また、p17の「銚子汽船会社の所有船舶及び航路」表があり、「明治16.8」の項目に項と解説状況として「銚子?三ツ堀」と記載があります。
 
【資料4】『新編・川蒸気通運丸物語 利根の外輪快速船』は、タイトル通り1冊が通運丸の資料を織り込んだ物語です。p1415に「明治中期頃の通運丸航路図」が掲載されています。この図が何年のものかという記載はなく、すでに利根運河の航路が記入されています。
 
【資料5】『那古史』p936に、明治14年に設立された「安房汽船会社」が「房州丸を始め汽船3隻を霊岸島との間に就航させた」と記載されています。その後の房州航路の変遷や船賃についても記載されています。
 
また、【資料10】『内国通運株式会社発達史』についてですが、千葉県内の所蔵はありませんでした。国会図書館で所蔵されており、「デジタルコレクション」で本文をご覧になることができます。
国立国会図書館のホームページのトップページの左側に「国立国会図書館デジタルコレクション」の入り口があります。ここから入って『内国通運株式会社発達史』で検索をかけると、本文が出てきますのでご利用ください。このデジタル資料の3435コマ目には「明治214月編製 内国通運会社通運線路略図」があります。日本地図上に路線が記入されていて、拡大もできますが、細かいところまでは多少判別が難しいようです。また、72コマ目からの「汽船通運丸航運事業の創設」の項目に利根川の航路に関する経緯が記述されています。75コマ目には、房州航路の記述もみられます。
 
この他参考として、明治時代の廻漕会社や水運の状況が書かれている【資料6】?【資料9】を参考にご紹介します。
 
(紹介資料一覧)
【資料1】『図説・川の上の近代 通運丸と関東の川蒸気船交通史』(川蒸気合同展実行委員会2007
【資料2】『千葉県の歴史 通史編近現代1』(千葉県千葉2002
【資料3】『水郷汽船史 ふるさと文庫』」(筑波書林1984
【資料4】『新編・川蒸気通運丸物語 利根の外輪快速船』
(崙書房出版2005
【資料5】『那古史』(那古史編纂委員会 那古地区連合町内会 2007)
【資料6】『利根川汽船航路案内』(崙書房1972
【資料7】『利根川ハイウェー 利根川水運の盛衰を探る』(千葉県立関宿城博物館1996
 
(千葉県立中央図書館 千葉県資料室)
 
【資料8】『利根川舟運と利根運河 平成22年度企画展』(千葉県立関城博物館2010
【資料9】『川蒸気船銚港丸の誕生とその終焉 船主吉岡七郎の活躍』木下まち育て塾2011
 
(当館未所蔵)
【資料10】『内国通運株式会社発達史』(内国通運1918)国立国会図書館デジタルアーカイブ
 
(返礼) 
 担当者  さま
 
 ご丁寧な資料紹介のご回答ありがとうございます。
 今回の調査の切っ掛けになったのは、漱石の「木屑録」の行程の中で銚子~三ツ堀間の表現が保田や小湊に比べ、はしょった感じに思えたからです。
 先だって行われた漱石・子規の房総鋸山探勝碑除幕式の特別講演で、武蔵大の欒 殿武先生が同様の感想から当時の利根川の通行状況を調査され、先の資料の所在の説明をいただきました。そして、漱石の木屑録を読んだ感想を添えられておりました。(以下、略)
2014/5/31(土) 午後 1:20
 
 
 
 
 
 

夏目漱石・正岡子規:顕彰碑建立 親交深めた2人、−−鋸山・日本寺 

夏目漱石・正岡子規:顕彰碑建立 親交深めた2人、きょう除幕式−−鋸山・日本寺 /千葉

毎日新聞 2014年05月24日 地方版
 夏目漱石と正岡子規が若い時代に親交を深めたゆかりの地、鋸山の中腹にある鋸南町の古刹(こさつ)・日本寺(藤井元超住職)境内に2人の顕彰碑が建立され、24日に除幕式が行われる。
 2人は幕末の混乱期の1867(慶応3)年生まれ。1888年、第1高等中学本科で知り合い、共通の趣味である寄席を通じて親交を深めたとされる。1889年に子規が詩文集「七草集」を発表すると、刺激を受けた漱石は同年夏、房総半島を周遊し、漢文紀行「木屑録」を発表。互いに才能を認め合い、生涯にわたる友情の絆を深めたとされる。
 顕彰碑は同町出身の元高校教師で、漱石と子規の足跡を長年研究してきた関宏夫さん(73)=いすみ市=が昨年7月、町内の有志らと「漱石・子規房州鋸山探勝碑を建てる会」を結成。300万円を目標に県内外に協力を求めたところ、わずか10カ月ほどで目標額に届いた。
 顕彰碑には、日本寺の前住職が約25年前、日展会員の彫刻家、堀豊之氏=県美術会常任理事=に依頼して作成した若き日の漱石、子規の顔をデザインしたブロンズ製レリーフを埋め込んだ。レリーフは前住職の死後、寺に保管されたまま公開される機会がなく、作者の堀氏とも四半世紀ぶりの対面となる。碑は建設予定の本堂に通じる参道脇にある。
 関さんは「2人の文豪が千葉県で友情を育んだことはあまり知られていない。碑の建立を機に、観光、文化、教育など各方面で活用してもらいたい」と話している。【中島章隆】
 

夏目漱石・正岡子規:親交深めた鋸南 顕彰碑の除幕式 /千葉

毎日新聞 2014年05月25日 地方版
 
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自作のレリーフを埋め込んだ石碑の除幕式に臨んだ堀豊之さん(右)
自作のレリーフを埋め込んだ石碑の除幕式に臨んだ堀豊之さん(右)
 若き日の夏目漱石と正岡子規が親交を深めたゆかりの地、鋸南町の日本寺(藤井元超住職)境内に2人の顕彰碑が建立され24日、関係者が参列して除幕式が行われた。
 石碑の「核」となるのは26年前、寺の前住職の依頼で日展会員の彫刻家、堀豊之さん(83)=写真右、千葉市花見川区=が作成した漱石と子規の若い頃の顔をデザインした2枚のブロンズ製レリーフ(縦約45センチ、横約35センチ)。完成後、一般に披露する機会がないまま寺に保管されていた。作者の堀さんも除幕式で久々の対面となった。
 昭子夫人と除幕式に出席した堀さんは「多くの人に見てもらう場ができて良かった。今後、青銅色に変色すると、もっと重厚感が出る」と感慨深げ。
 顕彰碑は、同町出身の元高校教師、関宏夫さん(73)らが「漱石・子規房州鋸山探勝碑を建てる会」を結成、昨年夏から募金運動を進めて完成にこぎつけた。白石治和町長は「近代日本を代表する文人2人の出発点が鋸山。顕彰碑ができたのは意義深く、町民の誇りだ」と新たな観光名所の完成を喜んだ。【中島章隆】

金融政策の波及には一定の時間がかかる

 
日本経済の真相 2014版  高橋洋一 著 中経出版
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金融政策の波及には一定の時間がかかる
マネタリーベース(中央銀行の当座預金と中央銀行間の合計)を増やすと予想インフレ率が高まる。
予想インフレ率とは「物価が上昇する」「物価上昇が続く」と言う予想のことである。
予想インフレが高まると実質金利が下がり株価が上昇し円安になる。
実質金利とは、名目金利(取引に用いられる金利)から予想インフレ率を引いたもの。
実質的な金利が下がると、資金が株式市場に向かって株価が上がる。
株価、為替の波及効果は早く、量的緩和からすぐに株高、円安となるのが普通だ。
円安になると、半年から1年半位の間に輸出(GDP統計上は、海外から所得収支を含む)が増加する。
株高になると、半年から1年半位の間に消費が上向く。
実質金利が下がれば、実体経済が良くなるというのは経済学の普通の理論である。
実質金利が低下することで、半年から1年位のうちに設備投資も伸びる(当初、企業は内部資金を使うため、銀行の貸出しが増えるのは3年程度が経過してから)。
そうした段階になると、金利が上がっていき、実質金利も高くなる。
そして輸出、消費、設備投資が伸びると、いよいよGDPが上がり、失業率が下がり、物価や賃金が上がる。
物価や賃金上昇は「緩和の2年先」

漱石「こころ」を考察 伯耆の男性が自費出版

鳥取)漱石「こころ」を考察 伯耆の男性が自費出版

 
2014年5月27日(朝日新聞)
自費出版した本を手にする森谷篁一郎さん=伯耆町古市
 連載開始から今年で100年を迎え、朝日新聞で再び連載中の夏目漱石の「こころ」。教科書でもなじみが深いその名作に、独自の分析を盛り込んだ「漱石『こゝろ』その仕掛けを読む」を伯耆町の森谷篁一郎(こういちろう)さん(84)が出版した。「こころ」について考察した約20年の集大成だ。
 森谷さんは旧溝口町(伯耆町)出身。京大文学部哲学科を卒業後、県西部の県立高校で国語の教員を37年間務め、1990年に定年退職した。
 若いころから漱石の作品には親しんできたが、特に「こころ」に興味を抱いたのは、70年代後半のことだった。教科書に「こころ」の抜粋が載り、授業で扱おうと考えた。だが、改めて「こころ」を読み直したところ、「とても授業で自分が教えられるようなものではない」と感じたという。
 先生の自殺以外に問われている主題が他にあるのではないか。様々な疑問が浮かんだ。「自分が納得していないものを生徒には教えられない」と授業では結局取り扱わなかった。その後考察を始め、退職後に本格的に研究に取り組むようになった。
 研究者が書いた論文にもあたったが、納得いくものがない。「こころ」を読み込み、所属する「米子文学」に小論を発表するなど疑問点への解釈を考える日々が続いた。
 到達した考えは、先生の自殺は物語の「仕掛け」であるというもの。森谷さんは作家の大岡昇平が、小説は仕掛けであり「こころ」を読むときにも仕掛けを見逃さないようにしないといけないと主張していることに着目した。
 「小説は何らかの目的のために想像力で作り出された超自然な仕組みを内包する。『こころ』での自殺も、不自然で超自然であるから物語の仕掛けに相当する」と解釈。自殺そのものを論ずるのは物語からの逸脱で、自殺という異常行動で、それに相応する先生の意識や言動を創りだし照らし出したと結論づけた。
 森谷さんは「自分なりの一つの解釈を出せた。漱石の研究者にも読んでもらいたい」と話す。
 昨年6月、13章151ページの本500部を今井出版(米子市)から自費出版した。1200円(税別)。問い合わせは本の学校今井ブックセンター(0859・31・5000)など、今井書店各店舗へ。(柳川迅)
■「戦争の傷 癒やしてくれる」
 松江市東本町3丁目の酒造会社前社長、米田盛造(せいぞう)さん(91)は、「こころ」の連載を楽しみにしている。「何度読んでも良い本。漱石さんの作品は人生そのものが書いてある」。魅力をこう話す。
 手元に新潮文庫2冊と角川文庫岩波文庫版の「こころ」がある。時代や筆者によって違う巻末解説を読み比べるために集めた。4月に始まった本紙連載も毎回切り抜いている。「漱石の新聞小説は楽しみだと母が言っていた。昔の人が読んだように、連載小説を楽しんでみたい」
 「こころ」にひかれるもう一つの理由は、自身の戦争体験にある。
 松江商業学校(現・松江商業高)、大分高等商業学校(現・大分大)を卒業。1943年に旧陸軍に入った。軍需物資などを運ぶ輜重(しちょう)兵として中国へ出征。その後は熊谷陸軍飛行学校(埼玉)をへて、シンガポールへ転属する途中に、乗っていた輸送船が台湾南部の高雄沖で空襲され、海に飛び込んで一命をとりとめた。「戦時中は国のために死ななければいけない時代。私も20代で死ぬつもりで、命がけで勇んでいたが、戦争に負けて気落ちした」
 空襲された船の甲板で、隣の少年兵が頭に弾を受けて息絶えた。復員すると、幼なじみのいとこ4人はみな戦死していた。死と隣り合わせの体験ですさんだ心をかかえ、道を踏み外さない支えにと、哲学書も読んだ。でも、いちばん読みやすかったのが漱石だった。
 90歳を超えるまで元気でいられると思っていなかったが、いまも戦争のことを思い出すと心がざわつく。こころの連載が「心を癒やす糧になるといい」。ルーペを手に、きょうも目を通す。(小西良昭)

漱石「こころ」100年 寄稿

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初夏の子と犬
小山田 浩子
大野教授
漱石の故郷探求今も

猫と漱石 見えるのは青空か廃虚か

(文芸時評)猫と漱石 見えるのは青空か廃虚か

2014年5月27日21時21分(朝日新聞デジタル)
 
片山杜秀(評論家)
 夏目漱石の「こゝろ」から100年。時宜を得た小説が現れた。横山悠太の「吾輩ハ猫ニナル」。頁(ページ)を開くと漢語が多い。漱石よりも森鷗外を連想するかもしれない。しかし鷗外と違うとすぐ気づく。日本語では見慣れない漢語ばかり。「旁辺の席位にいたのは臉ばかり白い痩せぎすの阿姨さんだった」とか。
 漢語は基本的に現代中国語。「隣の席にいたのは顔ばかり白い痩せぎすの小母(おば)さんだった」。こう翻訳できる。原文にはルビもある。とにかく現代中国語と日本語の混交だ。しかもその文体の実験が物語の趣旨にかなう。主人公は日中バイリンガルの青年。父は日本人。母は中国人。大陸育ち。彼が父の国を訪ねる。この設定が字面だけで生き生きと伝わる。
 けれど文体は途中で変わる。漢語に変換不能なひらがなのシャワーが主人公を襲う。「こちらのろーそくをともしますとーおきゃくさまもーわたしたちねこのなかまいりですにゃーん!」
 かくて主人公は猫になる。題名通り。秋葉原の「女僕珈琲店(メイドカフェ)」で。
 馬鹿馬鹿しいと笑うなかれ。漱石の「吾輩は猫である」の主要テーマは「神経衰弱」だろう。近代的自我を強く持つ。我を張る。他者とぶつかる。心が弱る。人間側の主人公、苦沙弥先生の苦しみである。そこで東洋哲学者がこう説く。物事のありのままを素直に受け入れればいい。無理なことを夢見るから苦しむ。無理をせねば神経衰弱にもならない。その果てに「こゝろ」の則天去私の思想も現れるのだろう。
 「吾輩ハ猫ニナル」の主人公はというと、秋葉原で猫になり、近代的自我を捨てる。にゃんにゃん言う。生まれ変わる。日中のはざまで悶(もだ)えていた主人公は日本を素直に受け入れてもよいと思う。
 最後は空の描写。「天はよりによって雲ひとつなくのっぺりしてだまっている」
 いつの間にか自然な日本語になっている。父の国へのわだかまりが解ける。則天去私の境地だろう。我を払って晴天の空のような気持ちに。こうして「吾輩は猫である」から「こゝろ」までの漱石が辿(たど)られる。見事な漱石論にして、爽やかな成長小説である。
 この「吾輩ハ猫ニナル」のネガとして読めるのが奥泉光の『東京自叙伝』。「3・11」のあとに爽やかな成長小説を書くことは野蛮である。そんなスタンスだ。主人公は東京の地霊らしい。魔物の一種か。荒俣宏の『帝都物語』を思わせる。
 しかし『帝都物語』だと魔物は加藤保憲という単体のキャラクター。彼が東京を滅ぼそうとする。ところが『東京自叙伝』の地霊は誰にでも憑(つ)く。江戸時代から現代まで。侍だったり、軍人だったり。原子力産業関係者にも、動物にもなる。漱石の「吾輩は猫である」のモデルになった猫も地霊の化身と説明される。かなり無茶な設定ではないか。これで小説が成り立つか。
 奥泉の力技である。成り立つのだ。「○○は私です、××も私です、そうなんだから仕方ない」。ぬけぬけとした一人称の畳み掛けで痛快に押し切る。語り口はまるで明治時代の豪傑譚(たん)。陽気なホラ話の文体だ。
 だが中身は決して楽しくない。豪傑調の語りは東京滅亡の強迫観念と表裏一体。地震の描写が繰り返される。地霊の取り憑く相手も、社会的強者から弱者に墜(お)ちてゆく。猫より鼠(ねずみ)になる。鼠といってもミッキー・マウスとかではない。鶴屋南北の「東海道四谷怪談」でお岩の亡霊の手先となって何もかも齧(かじ)るような凶悪な鼠。福島第一原発放射性物質を齧って歓喜する。
 そうそう、秋葉原も出てくる。「吾輩ハ猫ニナル」と同じく。が、そこで奏でられるのは破滅劇の終幕の序曲だ。
 漱石は、我を張る人間の世界が則天去私の境地に至れず滅びゆくペシミズムも語った。奥泉はそちらの側に猫も鼠も秋葉原も引き寄せる。「吾輩ハ猫ニナル」のネガという所以(ゆえん)である。「3・11」後の危機意識の昂進(こうしん)が生んだ、殺気立った滅亡文学だ。
 ところで浅田彰は「新潮」の東浩紀との対談で、「3・11」を哲学者や文学者が主題化することに水を差す。浅田は言う。「とくに、原発事故について、フクシマで衝撃を受けたという人はどうかしているんじゃないか」
 危険性は十分に指摘されていた。「予告された通りの事故」が起きたにすぎない。勝ち目のない対米戦争を誰も止めなかったのと同じ図式の反復。分かっちゃいるけどやめられない。丸山眞男が「無責任の体系」と名付けた日本的意思決定機構の問題が繰り返された。思想的には新しくない。新しくないことに衝撃を受けたと騒ぐのは「よほどのバカか偽善者」。浅田は述べる。
 筋は通っている。だが「想定内」だから改めて騒ぎ立てるべきでないという賢げな文化人の消極的論理が、「想定外」だから責任はとれないという投げやりな為政者の態度と組み合わされば、どうなるか。文化人の冷笑主義が「無責任の体系」を結果として援護射撃する。そうにしかなるまい。退くも地獄、進むも地獄。ならば私は「バカか偽善者」の方がいい。

夏目漱石 こころ、姜尚中

  夏目漱石 こころ  姜尚中 著  NHKブックス

 私は何千万の日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去をものがたりたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。

 
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寺田寅彦の書簡471点、みやこ町に寄贈

 
  • 福岡)寺田寅彦の書簡471点、みやこ町に寄贈
 
2014年5月30日(朝日デジタル)
寺田寅彦が小宮豊隆に宛てたはがき。中央が年賀状だ=みやこ町豊津
 
 夏目漱石の小説「三四郎」の主人公のモデルといわれる小宮豊隆(1884~1966)=みやこ町出身=に、同じ漱石の門下生の寺田寅彦から宛てられた書簡471点が町に寄贈された。その一部を展示する企画展が30日、町歴史民俗博物館で始まる。
 「三四郎」は明治41(1908)年12月に朝日新聞の連載が終わったが、その翌年元日、小宮の手元に届いた寺田からの年賀状は次のような文面だ。
 「思ひ切つたハイカラの御年賀申上候。此れは多分原口君のデザインになりたるものと存じ候 美禰子嬢へも同様のを差出すつもり 三四郎様」
 赤や黄色のリボンの絵に加え、「A Happy New Year」の文字が印刷された既製の絵はがきを用いている。文面の「原口君」は三四郎に登場する画家、「美禰子嬢」は三四郎が恋慕した女性で、小宮を三四郎になぞらえたユーモアたっぷりの内容となっている。
 小宮はドイツ文学者で、寺田は物理学者。驚くのは寺田の筆まめさだ。小宮が住んでいた東京・本郷だけでなく、帰省先の「福岡県京都郡犀川村」に宛てたはがきも含まれている。
 町教委によると、471点は小宮の遺族が押し入れから見つけて今年3月に町に寄贈したもので、封書170点、はがき301点。確認できた最も古い日付は明治40年6月で、新しいものは昭和10年なので、30年近い交流を示す。
 これらの書簡は「寺田寅彦全集」(岩波書店)に絵はがきの絵柄も含めて収められているが、現物の存在が不明だったという。町教委は全集にない書簡がないかを確認している。
 小宮の遺族から町に寄贈された資料群は、漱石が小宮に宛てた書簡などを含む昨年5月に贈られた477点と合わせ、総数で948点となった。川本英紀・文化係長は「全集は活字でしかなく、分野が全然違う物理学者とドイツ文学者の交流を何よりも物語る貴重な歴史資料」と話す。
 「拝啓、友よ」が企画展のタイトルで、6月1日まで。入館料は大人200円、高校生以下100円。(久恒勇造)

夏目漱石「二百十日」を歩く

(火の国をゆく)夏目漱石「二百十日」を歩く 阿蘇市

籏智広太
2014年5月31日(朝日新聞デジタル)
 
 
【動画】夏目漱石「二百十日」を歩く=籏智広太、熊本朝日放送撮影
漱石の泊まった部屋で、ビンの「恵比寿」を手に持つ工藤さん。机の上には漱石がつけた蚊取り線香の跡も残っているという=阿蘇市内牧の夏目漱石記念館
 
 2016年は夏目漱石が旧制五高(現・熊本大)に赴任して120年。県内でにわかにわき始めた「漱石ブーム」に興味をそそられ、小説「二百十日」の舞台になった阿蘇路を歩いた。
 1906年に書かれた同書は、豆腐屋の倅(せがれ)と友人が阿蘇山の火口を目指して旅する様子をコミカルに描いた中編小説。1899年9月初め、漱石が五高の同僚の山川信次郎と、阿蘇に旅行したことが原体験になっている。
 主人公2人、そして漱石ら2人も泊まった旅館は、今も阿蘇市内牧にあるホテル「山王閣」(当時は養神亭)。6畳一間の客室は庭に移築され「夏目漱石記念館」になった。
 小説では、夕飯時にビールを頼んだ2人に対し、宿の女中がこう言う場面がある。「ビールはござりませんばってん、恵比寿ならござります」
 「うちは『ヱビス』しか置いていないんですよ」と笑いながら話すのは、山王閣の工藤浚三専務(67)。漱石にあやかり、20年以上前からビールの銘柄は一つだけ。毎年9月の「漱石祭」では、神事の後に参加者に缶のヱビスビールをプレゼントしているという。
 記念館の近くには漱石の胸像や句碑もあり、宿泊客以外にも解放されている。年表や写真が並ぶ部屋の窓からは、阿蘇の涅槃(ねはん)像を一望できる。漱石はこの風景を思い出しながら、「見上げる向(むこう)では阿蘇の山がごううごううと遠くながら鳴っている」と書いたのだろうか。
 同じ内牧にあり、「銀杏(いちょう)の樹(き)が一本、門前にあった」と描かれた明行寺や阿蘇神社阿蘇市一の宮町宮地)を訪れた主人公2人は、火口を目指す途中、立春から二百十日目の嵐に巻き込まれて道に迷い、下山した。これも、実体験に基づいていると言われている。漱石らが迷ったとされる場所は、阿蘇パノラマラインの途中の坊中野営場付近。ここにも記念碑がひっそりとたたずんでいる。
 漱石がどこまで登れたのか、火口を見たのか見ていないのかは、これまで専門家やファンの間で議論になってきた。元熊本大教授で漱石研究者の中村青史さんは「記念碑よりも、もっと上まで登っていたと思います」と指摘する。小説では林を抜け、青草が茂る場所で道に迷った様子が描かれているが、碑は杉林が続く途中に建てられている。
 「ともかく阿蘇へ登ろう」。翌朝、立野の馬車宿で二百十一日目を迎えた2人が再び火口を目指そうと決意する場面で、小説は終わる。では漱石もまた、火口を目指したのか――。中村さんは「それはないでしょう」ときっぱり。当時の漱石は行く先々で俳句を書き残していたが、火口を読んだものは存在しないのだという。「漱石は、自分が火口を見られなかった未練を2人に託したのかもしれませんね」
 今は当時より気軽に見ることができる火口だが、「漱石の未練」に思いをめぐらせながら覗いてみれば、また違った趣を感じるのかもしれない。(籏智広太)
 
 

漱石の「女性への手紙」焦点に開講

「土曜文学の会」が15周年 漱石の「女性への手紙」焦点に開講
更新:2014-6-1 6:00
 
 長野日報社(諏訪市高島3)が主催する「土曜文学の会」が今年度で15周年の節目を迎えた。5月31日、本社5階会議室で開講式が開かれ、継続参加の34人を含む38人が受講した。今回は昨年度に続いて文豪の夏目漱石(1867~1916年)を取り上げ、女性への手紙」に焦点を当てる。漱石の人間像と周辺事実に迫る。

 全国大学国語教育学会会員で、東海大三高校講師の原藤芳明さん(60)=同市湖南=を講師に、来年3月14日まで計11回の講座を行う。期間中に「文学探訪の旅」も行い、参加者の親睦を深める。

 漱石は生涯で約2500通の手紙、はがきを出し、女性にも多数書いている。妻の鏡子夫人には英国留学の時から書き始めた。原藤さんは「手紙からは、作品では推し量ることのできない人間的な魅力に満ちた漱石像が見えてくる。男性への手紙と、妻に書いた手紙を比較するのも面白い」とし、どのような心の内を吐露したかを探りたいと語った。

 開講式で長野日報社の佐久秀幸社長は「15回の長きにわたり、多くの人にこの講座を愛していただいた。いくつになっても勉学に興味を持ち、生きがいのように通っていただくことはうれしい」とあいさつした。

 第1回から参加している大石まさ子さん(68)は=諏訪市上川2=は「原藤先生は14年間一度も休んだことがなく、情熱を感ずる。漱石が読者に伝えたいことをかみ砕いて解説していただいている。現代社会にも通じ、得るものが大きい」と語った。

記憶の呪縛「道草」と重なる

漱石 こころ 100年  記憶の呪縛「道草」と重なり   ロバート キャンベル

「こころ」の先生は自分の記憶に生涯苛まれていました。「道草」の主人公にも、過去の自分と折り合いがつかず、記憶から逃れられません。「こころ」の後半、先生の遺書は青年に託した先生の自伝のよ。二つの小説には不思議な連続感がある。

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ロンドン時代の漱石紹介 「五高赴任」120年

講演会:ロンドン時代の漱石紹介 「五高赴任」120年を前に、熊本市で /熊本

毎日新聞 2014年06月01日 地方版
 文豪、夏目漱石のロンドン留学時代をテーマにした講演会「夏目漱石とロンドン」が31日、熊本市中央区のホテルであった。ロンドン漱石記念館(英ロンドン)の恒松郁生館長が留学中の漱石の様子を紹介し、参加者約100人が聴き入った。
 漱石が旧制第五高等学校(現・熊本大)に赴任して2016年で120年を迎えるのを前に熊本の活性化を目指す「熊本ルネッサンス県民運動本部」(吉丸良治会長)が主催した。
 漱石は1900〜02年、英国に留学。恒松館長は、小説「坊っちゃん」の中で英国人画家、J・M・W・ターナーの作品に関する記述があることや、英国の教会の司祭が書いた本の一文と「吾輩は猫である」の一文が酷似していることを指摘して「留学中の読書や、美術館などを訪れたことが作品に生かされている」と説明した。
 また下宿先を探すため新聞に掲載した広告に「タダシ文学趣味ヲ有スルイングランド人家庭ニカギル」と記していたことについて、恒松館長が「安い家賃なのに言うことはしっかり言うところが漱石らしい」と語ると、会場から笑いが起きた。【松田栄二郎】

新宿区夏目漱石コンクール

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平成26年度新宿区夏目漱石コンクール

 新宿区は、夏目漱石が生まれ育ち、その生涯を閉じたまちです。晩年の9年間を過ごした早稲田南町の家では、作家として本格的な執筆活動を開始し、「三四郎」「こゝろ」「道草」など数々の名作を世に送り出しました。この家は、「漱石山房」と呼ばれ、今でも人々の記憶に刻まれています。新宿区では、漱石生誕150周年にあたる平成29年(2017年)2月の開館を目指して、(仮称)「漱石山房」記念館の整備を進めています。

夏目漱石を知り、その作品に触れる機会を創出するとともに、(仮称)「漱石山房」記念館について情報発信し、開館後の事業展開につなげるため、新宿区夏目漱石コンクールを実施します。本コンクールは、読書感想文コンクール「わたしの漱石、わたしの一行」(中学生・高校生)と、絵画コンクール「猫になって描いてみよう~わがはいはネコである~」(小学生)の2種類です。たくさんのご応募をお待ちしています。

【主催】 
新宿区・新宿区教育委員会
【後援】 
東京都教育委員会、千代田区、文京区、熊本県、熊本市、阿蘇市、玉名市、松山市、伊豆市、鎌倉市、早稲田大学、東北大学、 (株)朝日新聞社、(株)朝日学生新聞社、(株)岩波書店、(株)新潮社、(株)紀伊國屋書店、新宿区町会連合会、夏目漱石・記念年実行委員会、一般社団法人新宿区印刷・製本関連団体協議会、公益財団法人新宿未来創造財団

(1)読書感想文コンクール「わたしの漱石、わたしの一行」(中学生の部・高校生の部)

 夏目漱石作品(作品の指定なし)を読み、自分の心に深く残った「一行」を選び、なぜその一行を選んだのかを800~1,200文字(400字詰め原稿用紙2~3枚もしくはそれに準じたもの)で表現してください。

応募資格

 全国の中学生・高校生

(2)絵画コンクール「猫になって描いてみよう~わがはいはネコである~」(小学生の部)

 自分がネコになったつもりで、あるいはネコの気持ちになって、「猫の目から見た世界」を絵画として自由に描いてください。夏目漱石作品を読んでいなくても良いこととします。  八つ切りサイズ(27cm×38cm・縦横自由)の画用紙を用いてください。画材(鉛筆、色鉛筆、クレヨン、絵の具、マジック、サインペンなど)で手書きしてください。立体的でない貼り絵、切り絵、版画も可。八つ切りサイズの画用紙以外の作品やデジタル作品は対象外です。額装はしないでください。

応募資格

 全国の小学生

漱石記念館:寄付、目標2倍に 769件、4億985万円 新宿区、情報発信に力−−17年2月開館

漱石記念館:寄付、目標2倍に 769件、4億985万円 新宿区、情報発信に力−−17年2月開館 /東京

毎日新聞 2014年06月05日 地方版

 ◇感想文と絵画、23日から二つのコンクール

 夏目漱石の生誕150年となる2017年2月の開館を目指す「漱石山房」記念館(仮称)について、新宿区は整備基金への寄付が3日現在、目標の2倍の769件、4億985万円になったと発表した。区は23日から、中高生対象の読書感想文コンクール「わたしの漱石、わたしの一行」と、小学生の絵画コンクール「猫になって描いてみよう〜わがはいはネコである」を開催。記念館の情報を積極的に発信していく。
 漱石は1867年、今の同区喜久井町に生まれ、1916年に亡くなるまでの9年間を同区早稲田南町の借家に暮らした。洋風のベランダを持つ居宅は「漱石山房」といわれ、「三四郎」など代表作が次々と執筆された。だが、45年の空襲で焼失し、現在は区の漱石公園と区立住宅になっている。
 記念館は老朽化した区立住宅の跡地に建設する計画で、書斎など漱石山房の一部を再現する。区は建築設計業者をフォルムデザイン一央(武蔵野市)に決定。今年度中に施設を設計する。漱石に関する初の本格的施設として、作品や生涯を多角的に知ることができるよう、映像や漫画も集めたブックカフェやミュージアムショップも充実させる。
 両コンクールは、漱石ゆかりの松山市や熊本市などにも呼び掛けて全国から作品を募集する。感想文は、心に残った漱石作品の一文を選び、その理由を800〜1200字で表現する。絵画はネコの気持ちで自由に描く。いずれも9月19日必着。12月に優秀作品を表彰し完成後の記念館に展示する。詳しくは事務局(03・5408・1016)。【山田大輔】〔都内版〕

下関で姜尚中さんが講演 梅光学院開学100年

山口)下関で姜尚中さんが講演 梅光学院開学100年

2014年6月7日
講演する姜尚中さん=下関市民会館
 
 聖学院大学(埼玉県上尾市)の学長で、夏目漱石の「こころ」を手がかりに独自の漱石論を展開している姜尚中(カンサンジュン)さん(63)が6日、「心の力」と題して下関市民会館大ホールで講演した。梅光学院下関開学100年の記念行事で、約1200人が耳を傾けた。
 「漱石の文学は21世紀を予見できる文明論を持っていた」と姜さん。朝日新聞の社員として新聞小説を書き続けながら、「非常に悩み、お金に困った人だった」とも。古い価値観や制度が疲弊した現代社会で「最大の問題は人を信頼できるかということ。最後は家族が大きなよりどころとなるはずだ」と述べた。
 漱石は東京と地方を経験したことから「複眼的視点を持っていた。漱石的に考えたら東京一極集中は不健全だ」と指摘。100年の節目を迎えた梅光学院には「地域をしっかりと支えられる人を送り出してほしい」とエールを送った。
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